「変えられるのは自分だけだ」
という金言がある。
専ら環境に対して不平不満を持つ輩に対して、戒めの意味で使うことと思う。
言葉の裏の意味は、「他人は変えられない」であるから、稀にこの言葉は、他者を己の正義に基づいて変えようと強いる人に対して警告するために用いられる。
後者の意味で今一度言おう。
「変えられるのは自分だけだ」
思うに、彼には彼なりの正義があって、何より自分の行動に対する自信が凄まじいのだろう。
自分は正しいことをしているという自信や、必ず相手に影響を与えている自信というか、きっと今までそういう風に生きてきたのだと推測する。
だから打っても鳴らない鐘を目前にした時、鐘の鳴らない仕組みを理解しようとしないのだ。
「この俺が打っているのに、なぜ鳴らないのか」
こう憤ったに違いない。
鐘は思った。
「今は鳴りたくない」と。
鐘にも意思があったのだ。
他者とは総じてそういうもので、これまでうまくいき過ぎた人は、時に他者を鐘と見做す。鐘にも意思があることを忘れてしまう。
だから時たま現れる「鳴らない鐘」を敬遠する。
別に正義を否定する気は毛頭ないし、客観的に見ても彼の行為を咎める人は多分いない。
その「正しさ」も助長して、憤りは募るばかりかと察する。
ただ、打てども鳴らぬ鐘もある。
変えられるのはいつも自分だけだ。
だから、ここで今一度立ち止まって見直して欲しい。それは鐘ではない。
それは俺だ。
当たり前のことだが、他者は自分ではない。
思い通りにならないからといって、変に気に病む必要はない。
もっと柔軟に物を見ることができたらいいねと思う。自分の正義を押し付けるだけでなく、他人の正義にも耳を傾けるくらいでいい。多様性を尊重して欲しい。
他者に対してできることなんて、せいぜい、客観的で冷静な助言くらいなものだ。
自分の考えにそぐわない選択を他者がとる度に反応してたら疲れちゃうけどねと俺は思う。
でもその辺の気にかけてくれてる感じは心底感謝してたりする。
モヤモヤがあったからザーッと書いた。
来年度こそは鳴りたい鐘より〆